2009年8月28日(金)
von Heidelberg nach Frankfurt
 いよいよ帰国の日。ハイデルベルグの名所めぐりだ。

in Heidelberg
 クラウン・プラザでの朝食。今朝はA氏と2人。レストランは空いているけれど、カドの席に目が行ってしまう。「よし、あそこだ」とねらいを付けた席には、先客の印として、ウェット・ティッシュが置かれていた。日本人だ。日本人は中央の席を好まない人が多いようだ。わたしたちは、料理台に近い、もう一つのコーナーに席を占めた。レストラン・スタッフは、きょうもあいさつなし。昨朝の無愛想娘もいつの間にか姿を現し、食器を下げに来る。A氏がこれでもかという具合に Thank you! と言っても返答なし。
 黒服の姿もなし。朝食をよほど軽視しているのだろうか。それとも労使関係が悪いのか。


 10:00にC氏がやってくる。もう三日目だから、部屋へ直接だ。逆にわたしたちは氏の住まいや研究室を案内されなかったなぁ。わたしたちは荷造りをしており、使い切れなかった品、ティッシュや非常食類を引き取ってもらう。ビールも一缶あったなぁ(後日、飲んでも身体に異常はなかったらしい)。

 チェックアウトをし、荷物をクロークに預けて、市内見学に出発。
 まずはハイデルベルグ大学をめざす。メインストリートもまだ人出は少ない。



ハイデルベルグ大学
 それこそ中世から存在している校舎なのに Neue(新しい)とある。新しいキャンパスは郊外に別にあるという。


 C氏が月曜日の一限に聴講している「国際環境法」の教室の廊下。夏休みなので施錠されており、内部を見ることはできない。<写真右>は何かのリスト。



 C氏が「ぜひ見ておくとよい」と勧めてくれた「学生牢」。入場料をとる。牢獄というイメージをもって入ってみると、意外と開放的だ。

 壁には、場所によっては床にも落書きがギッシリ。日本人旅行者のそれはなかったと思う。
 そもそも学生牢にはどんな場合に入れられるのか? 暇にあかせて落書きをしたとしても、牢に名を残すのは「末代までの恥」という意識はなかったのだろうか。この疑問を解き明かしてくれたのは、帰国後のB氏だった。
 当時といってもかなり幅があるが、決闘は禁じられていた。しかし、この禁を犯す学生はあとを絶たなかった。だから、決闘をした学生を収容した。学生は「オレは勇気があるだろう」と意気がって名を残そうとしたのだという。


 <写真左>これはトイレだよ、きっと。中国撫順の戦犯収容所の写真にもあった。



 講堂。内装が素晴らしい。ここでも別途、入場料。
 ある程度の見学者が集まると、鍵を開けて内部に請じ入れ、説明する。最初はドイツ語、つぎが英語。どちらもわからない。係のおばさんが、Have you ever seen 展示室? としきりに聞いている。わたしに問うていると気づくまでに、時間がかかった。「えっ、わたし?」と言ったところで、笑いが起こった。No.と答えたら、あとでぜひ見るようにと言われた。ここは、Not yet.が正解ですよね。



書店めぐり
 せっかくドイツへ来たのに、開催中の「世界陸上」をみることができなかった。はじめから予定していなかったとはいえ、サッカーをみないのは、やはり心残りだ。せめて、サッカーの、そして鉄道の写真集でも手に入れたいと考えていた。
 これまでの街では、市中で書店を見かけることも少なかった。駅の書店には雑誌しかなかった。ここは「大学の街」だけあり、新刊書店も古書店もある。旧市街のメインストリートを二往復する中で確認できていた。新刊書店に鉄道書があることはあるのだが、第三世代のICEまで収録しているものが見つからなかった。
 古書店の地下に降りたら、スポーツ写真集のコーナーがあった。オリンピックでのドイツ選手の活躍を綴ったものの近くに、ワールドカップ1974(WM74)の写真集があった。BeckenbauerやVogtsなど、実際にみたことのある選手が活躍した印象深い大会だ。決勝戦のみ衛星実況中継された。録画などできなかったので、音声だけをオープン・リールのテープレコーダーで録音したのだった。
 そんな思い出話をA氏は聞いてくれた。著者のヘネス・バイスバイラ-は、1969年にボルシアMGを率いて来日したことがある。ケルン体育大学でコーチ学を教えるサッカーコーチの元締めでもあったと聞いた。70年代に三菱FCや日本代表に影響を与えた理論家である。
 背表紙が少し傷んでいるが、約5ユーロ。書庫に仕舞ってあるものと同じものかも知れないが、現地で買うことに意義があるという理屈を付けて購入した。


 鉄道書も探したかったが、哲学の道へまわる時間がなくなるので、あきらめて店を出た。しかし、土産物を買っていないので、歩みは鈍くなり、ネパール人の店で妻のカーディガンを求め、ケーテ・ウォルファルトでは、ローテンブルグで控えておいたペンギンの玩具を買った。
 日本の観光地には、名前の入った小物があるが、ここには「名前の入ったボールペン」があった。もちろんドイツ人の名前だ。
 Franzを探したがない、Bertiもない、GoeldもWolfgangもRainerもない。あったのはGuenterだけ。サッカーファンの友人用にと2本求めた。それぞれのファーストネームは、ベッケンバウアー、フォックツ、ミューラー、オベラーツ、ボーンホフのもの、そして最後はネッツァー。EURO1972では優勝の立役者だったが、WM74では不調、東ドイツ戦のみの出場に終わった。69年にボルシアMGの一員として来日したときには、プログラムに「66年ロンドン大会に出場、サッカーの芸術家と呼ばれる」と記されていた。しかし記録を調べても名前がない。同大会には出場していなかったのだ。そんなことも思い出した。
 レジで、消費税の払い戻しを受けるための書類を渡される。
 もう、哲学の道へ回る余裕はなくなった。

ハイデルベルグ城へ
 メイン・ストリートから1本中に入ると、閑静な街並みが続く。しゃれたオフィスや小売り店舗も見られた。
 お城へはケーブルカーも通じているが、若いわたしたちは、急峻な坂だってものともしない。アジア人の団体は、登りかけたものの、途中で引き返した。ケーブルカーかな。


 薄曇りで涼風があり、あまり汗もかかずに到着。山の中腹に石造りの砦、この石を運ぶのはさぞかし大変な作業であっただろう。13世紀に創建されたこの城、歴代城主がその時々の建築手法を使って改造しているので、さまざまな建築様式が見られるのだという。
 直径が3〜4bはあるワイン樽。こんな山上に「薬の博物館」もあった。


 崩れた塔がある。第二次世界大戦の爆撃のなごりだろうと想像したが、ハイデルベルグの街は爆撃されなかったとか。結局この塔は弾薬庫として使われ、はるか昔に庫内で爆発が起こり、このような姿になったのだという。
 <写真右>敵を誘い込みたたく、袋小路かな。


 ネッカー川上流方向


 ネッカー川下流方向。右の塔は聖霊教会。





ドイツ最後の食事
 山から下りて、まずは遅い昼ご飯。イタリア料理、道路際ではなく庭園にテーブルを並べる店。


 アイスコーヒーとは、コーヒーフロートだ。


 こんな屈託のない笑い顔の写真は見たことがない。これは貴重な写真だ。次男は「父さんはいつもニコニコしているから、こんな表情はいつも見ている」という。わたしはそんなにニコニコしているのだろうか。そうだとしても、己の表情は見ることができない。貴重品は下着の中に首から提げているが、その様子がよくわかる。これはうまくない。料理もあまりうまくなかった。最後の食事なのに、残念。
 わたしの背後のテーブルには、日本女性の二人連れがいたが、いつの間にか消えていた。



シャトルバスで空港へ
 ホテルの裏はバスセンターになっており、フランクフルト空港との間にシャトルバスが運転されている。C氏が4月にやって来たときに、空港から乗ってきたのだ。鉄道の乗車距離を伸ばしたいところだが、乗り換えがあるので、バスを選択する。このバスの予約で、忘れがたいことが起こった。

 バスというので「リムジンバス」程度の車両を想像していた。しかし26日にC氏から予約した方が良いと聞いた。。利用者が多いんだろうなぁと考えて、27日朝A氏がほてるフロントに予約を申し込んだ。優秀な「午前の」スタッフなので、すぐに話が通じた。ルフトハンザから返事が来るが、夕方には判明するだろうという。

 カールスルーエから帰り、ホテルの「午後の」スタッフに予約は採れたかと聞く。わたしのチェックインを担当した「ぶっきらぼうな」お姉ちゃんは、予約リストを見つけることができなかった。「わかり次第、部屋にメモを入れておく」とのことだったが、深夜に帰館してもメモはなく、メッセージランプも点滅していなかった。

 28日朝、客室の電話が鳴った。これは予約の件だ、と判断し、A氏が受話器を取った。
 「おはようございます、Bです」。フロントからではなかった。
 朝食のついでにフロントにより、予約結果を尋ねると、すぐにペーパーを取り出し、「予約できていますよ」と言われた。午後スタッフから午前スタッフへの引き継ぎはなかったのだ。

 市内見物中に、C氏がシャトル便はバスではなく、8人乗りのライトバンだという。えェ〜、8人乗り、それじゃあ、予約しなければ乗れないはずだ、ガッテン。

 わたしたちが乗るのは、17:00発。余裕をみて、15分前にターミナルへ。といっても、ホテル クラウンプラザの裏。
 やって来ました、バスが。たしかにバンです、ベンツの。車腹には「ルフトハンザ エアポート シャトル」と記されている。下車客に荷物を渡し、三々五々に散って行くと、わたしたちの番だ。
 運転手が荷物を積み込み、つぎに乗り込む順序と席を指示する。運転手の横に2席、中列と後列が3席ずつという配列。乗客は6人だ。最初に、これぞドイツ女性という体型の女性が後列奥に乗り込む。つぎに痩身のわたしたち二人。役員と女性秘書という雰囲気の二人ともう一人が中列へ。運転手の横は空いたままだ。
 つぎに運賃の支払い。この時のためにとっておいた20ユーロ紙幣を運転手に渡す。どこかに消えたが、手書きの領収書をもって帰ってきた。シートベルトをセットしようとしたら、女性に触れそうだ。Excuse me.と言ったら、You are welcome.と返された。Where do you go? と聞いてみようと思ったが、見送りのC氏に言葉をかけていないことに気がついた。

 さっき、「ぼくはまだ200泊以上しなければならないんですよ」と言っていた。
 「4月に東京で会いましょう。体に気をつけて」と言い、手を振り合って別れた。「勉強の希望に燃えているとはいえ、寂しさはあるよね」とA氏と話した。


 バスが走り出すと、睡魔が襲った。「役員と秘書」の会話も止み、みなが寝ているようだった。アウトバーンを走っているようだったが、よくは覚えていない。「細い」とからかわれる目をはっきり開けたら、空港が見えていた。(09.11.10記)